桶川市 日本全国第2位とは

皆さん、こんにちわ!

前回、

桶川市の歴史として

ここ、坂田にも遺跡があった事や

城跡があった事など、投稿しましたが、

いかがだったでしょうか?

 

第2弾として

今回は……

紅花について調べてみました。

 

べに花が支えた桶川の発展】


江戸時代、

徳川幕府は全国を効率よく治めるために

東海道、

中山道、

甲州街道、

日光街道、

奥州街道という

5つの大きな道を整備しました。

 

道の要所に宿駅(しゅくえき)(宿場)をつくり、

大名や旅人が不便なく旅をできるようにしました。

この5つの道のうち、

桶川には中山道が通りました。

 

そして、

桶川宿(おけがわしゅく)という宿場ができました。

中山道の出発点は江戸の日本橋で、

桶川宿は江戸から6番目の宿場となりました。

江戸からの距離は約40キロメートルです。

 

宿場町となった桶川は、たくさんの人が行き来して、

人口も増え、しだいに発展していきます。

多いときは、

桶川宿の町の中には36軒もの宿屋があり、

多く旅人でにぎわいました。


☝江戸時代の宿屋の建物(小林家住宅)


 桶川宿が発展したもう一つの理由は、

たくさんの農産物の取り引きをした場所でもあったからです。

こうした農産物などの取り引きをとおして、

経済が活発になり、さらに多くの人が集まります。



桶川の重要な農産物の中に、

紅花がありました。

紅花着物などを染めたりする染物

口紅などの材料として使われ、

たいへん高価なものでした。

 

桶川紅花はとても質がよく

桶川臙脂(おけがわえんじ)」という

ブランド名がつけられるほどでした。

桶川臙脂が特産物だと記録されて

間もない天保4年(1833 年)から

天保7年(1836 年)は、

寒く作物が実らず、

人びとはたいへんな苦労をしたそうです。

作物が実らないだけではなく、

お米の値段も高くなり、

食べるものに苦労した人びとが

たいへん多かったと伝えられています。

 

江戸幕府は、

お米などの値段をさげるために、

だれでも自由に商売をしてよいと日本中のみんなに知らせました。

それまで、

江戸の商人紅花を売っていた桶川宿の商人は、

京都の商人紅花を送るようになります。

これは、

京都には紅花を使って口紅を作り

赤く布を染める仕事をする人たちがたくさんいたからです。

 

こうして、

桶川紅花の生産量は山形に次いで

日本全国で第2位にまでなりました。

 

こうした歴史が、

現在の桶川市のキャッチフレーズになっている

べに花の郷・桶川の由来です。



紅花の取り引きで、

たくさんの財産を手に入れた桶川紅花商人たちは、

その繁栄に感謝してふたつの石の燈篭を建てました。

これは今も桶川稲荷神社の境内に残っています。

☝紅花商人寄進の石燈篭

 

 

このように、

宿場町として、

商業の街として、

文化の交流の場所として、

大いに発展して賑わった桶川宿は、

現代の桶川市の基礎となったのです。

 

ここまで、ご覧いただき

ありがとうございます。!(^^)!

 

 

皆さん、

もう、お分かりいただけましたね。

☝今年、きれいに咲いた べに花です。

 

今は、コロナ、コロナの時代ですが、

色々な苦難を乗り越えてきた、

先人たちに負けないように、

生きていきたいと思いました。♥

 

また、

第3弾を投稿できたら、と思います。