今回の桶川元気人は名店「花寿司」のご主人 稲生弘さんと2代目の悠司さんにお話をお聞きしました(^▽^)/
今回の桶川元気人は来年創業50周年を迎える桶川の名店「花寿司」のご主人 稲生弘(いのうひろし)さんと2代目の悠司(ゆうじ)さんにお話をお聞きしました(^▽^)/
「花寿司」という名前は浅草が本店で、弘さんが寿司職人を目指して、最初に修業したお店の名前だそうです。
修業先の親方は昭和21年の終戦直後に新潟から上京し、まだまだ復興途中の焼け野原の中で、「米屋さんだったらご飯が食べれるだろう」と米屋さんに就職したそうです。
そして米の配達をしているうちに寿司屋さんにスカウトされ寿司職人になられたとのこと。
その花寿司からのれん分けをしてもらい1975年、弘さんは桶川の花寿司を始めました。
本店の親方が米屋さんから寿司屋さんに代わっていったように、
実は弘さんも最初から「寿司職人になりたい!修業しよう!」と考えていたわけではなかったそうです。
弘さんは上尾高校野球部に所属していて同級生はその後、プロになったスターが何人かいたそうです。
そんな野球部で1,2年は選手としてプレイし3年生ではマネージャーも兼任したとのこと。
高校在学中はずっと野球を続けてきましたが、プロ級の上手い選手を目の当たりしてきて
「もう野球はいいかな」と迷っていると、野球部に所属する条件で周りはどんどん就職を決めていったそうです。
野球をやめるとなると全く就職が決まらないまま、
ついに「自分で食べもの屋でもしてみようかな?」とお父さまに伝えたところ、
直ぐにお父さまが知っているお店に連れていかれたそうです。
それはまだ暑い最中の9月、最初に行ったのは横浜中華街の中華料理店で、
クーラーも無く、汗だくで大きな中華鍋を振って働く人たちを見たそうです。
「キツイ仕事だな。辛そうだな。」と思い、それから次に行ったのが東十条のお寿司屋さんでした。
今まで寿司屋に行ったこともなかったので、初めてのお寿司屋さん。
夕方の忙しくなってくる時間の中で、店内はとても活気があり、クーラーが効いて涼しく、
何よりも板前さんがテキパキと働く姿が「カッコいいなあ」と思ったそうです。
翌日、お父さまから「中華と寿司屋どっちがいい?」と聞かれて「寿司屋がいい!」と
返事をして寿司屋に就職が決まったそうです。
最初から寿司屋を目指していたわけではなかった弘さんですが、
仕事を重ねていくうちに寿司屋の仕事がとても楽しくて、
どんどんのめり込んでいったそうです。
それから10年花寿司で修業をし、その後、板前になってから3年間はいろいろな店に派遣され仕事をしたそうです。
そんな中、28歳の時に派遣会社の方から「ハワイに行ってくれない?」と言われ、
「面白そうだな、よしハワイへ行こう!」と乗り気だったそうですが、
ここでもまたお父さまが、「ハワイ行きは断固反対!!」ということで、
桶川の物件をお父さまが探し、手付をうってくれたそうです。
すっかりハワイに行くつもりだった弘さんでしたが、
そこまでしてくれたお父さんの気持ちに押され桶川でお店を始めることになったそうです。
高校が上尾だったことで、桶川は身近な町だったし、
当時の桶川西口駅前には三井の大きな工場があり大きな塀もあったそうで、
弘さん自身は駅の東口で商売をしたいと思ったそうですが、
借りたい物件をお持ちだった地主さんがすでに寿司屋に物件を貸出していた為、
商売敵となる別の寿司屋には物件を貸すことが出来ないと言われたそうです。
そんな中、現在のお店にほど近い場所をお父さまが見つけ来て、そこでお店を開くことが決まりました。
最初は弘さんお一人でスタートした花寿司はその後、見習さんが2人来て、さらに大忙しだったそうです。
それから数年、お店とスタッフの家賃を払うことよりも物件を購入した方が良いと判断し
現在の場所での花寿司が始まりました。
そして、弘さん32歳の時に、銀行にお勤めでお寿司を食べに来ていた
川田谷の川魚料理「山中」の娘さんの密子さんとご結婚。
それからずっと共に花寿司ののれんを守って来ました。
花寿司がオープンした1975年から2024年、桶川の町は大きく変化してきたことでしょう。
「バブルを経験し、そしてバブルがはじけて、この時はちょっと苦しかったよね。
さらにコロナも体験して、当初は駅前通りでお店をやりたかったけど、
この場所で商売が出来て良かったよ。」
「三共理化学、三菱マテリアル、マルキュー、コカコーラなど企業が接待に使ってくれて、
桶川市役所の方もよくきてくれるしね」と弘さん。
そんな花寿司ですが、数年前までは桶川で25店の寿司屋がありましたが、現在は5店になってしまったそうです。
後継者がいなかったり、バブルが弾けたり、コロナの問題も有りました。
埼玉県全体で800店あった寿司店は今では200店以下になってしまったそうです。
「上尾は40店あったのが7店になってしまったんだよ」と弘さん。
やはりこの50年、お店を守ってきたことは並大抵のことではなかったことでしょう。
「時代が変って、回転寿司など低価格のチェーン店も増えていますが、
変ってはいけないところは変えずに、新しいチャレンジも行っていかないとね」
今日もインターネットを見て初めて来たお客様がいらしたそうです。
素晴らしいことですね(^O^)
そして花寿司には、今、息子の悠司さんもおります!
寿司店が減っている中で二代目がいることは大変心強いことと思います。
弘さん曰く、「姉の二人は嫁に行ったし、悠司さんにも子供が出来て、代わっていく時期なのかなあ」とのこと。
「息子にうるさく言って失敗している店も結構あるのでね。
親の店を出て新たな店を作る人もいる」悠司さんがお店を継いでくれるのはご両親にとって大変嬉しいことでしょう。
悠司さんは花寿司を継ぐことは分かっていたけれど、ずっと拒んできたそうですが、
今は花寿司を活かして料理を提供していきたいと考えているそうです。
2年前から花寿司で働くようになりましたが、20歳過ぎからフランス料理店で12~13年働いてきたそうで、フランス料理では様々な食材の使い方を勉強したそうです。
今でも悠司さんの仕事着はフレンチシェフを彷彿させていて、とてもお似合いです(^^)v
きっと父と息子だからこそ、分かり合えること。譲れないこと。お互いに尊重できることがあるのだろうなと思います。
悠司さんの創る“寿司屋のオムライ酢” はオリジナリティに溢れ初体験のフレンチとジャパニーズ(寿司)のマリアージュで忘れられない美味しさでしたし、一品料理の数々はまだ食べたことがないのですが、メニューを見ているだけで美味しそうだなと心躍る楽しさに満ちています〜
悠司さんだからこそ信頼して、花寿司の斬新メニューが出来るのだろうと感じました。
悠司さんに「10年後はどうなっていたいですか?」と尋ねると
「花寿司を引き継ぎつつ、桶川以外の方にも知ってもらえるような明るいお店にしたいですね。
そして、寿司屋という型にはまらないで今まで勉強してきたことを活かして料理を提供していきたい」とのこと。
すでにその挑戦は始まっていることがメニューを見て分かるし、
インターネットの普及で“美味しい物を探している食いしん坊の目”に止まるのでは!?と思います\(^O^)/
悠司さん曰く残念なことに同世代では桶川で自分のお店を持っている人はあまり見ないそうで、
「若い世代が桶川から離れていくように感じますが、若い世代と共に桶川を盛り上げていきたいですね」とのこと。
それと悠司さんは、“桶川の祭り”が大好きで子供の頃からずっと参加していて、
自分の下の世代にも祭りを引き継いでほしいと願っているとのことでした。
私も若い世代に桶川の祭りや文化が引き継がれていくことは本当に大切なことだと思います。
是非、親から子へ先輩から後輩へ引き継いでいきたいですね☆
最後に「悠司さんにとって、弘さんには適わないな」と思うことを教えて下さいと
お伝えすると「何よりもお店を続けてきたこと。ずっと知っている方、
ついてきた人も多いですし、お客様を離さないことはお父さんに適わないと思います」
「そして、これからもっと一緒に仕事をすることによって
お父さんの凄いところが見えてくるのだろうと思います」とのことでした。
逆に「悠司さんには適わないな」と弘さんが感じることもきっとあるだろうなと思います。
親子二代で仕事が出来ること、引き継がれていくことは素晴らしいことだと思いました。
+弘さんの寿司の魅力の一つに、美しい “バラン”が有ります。
“バラン”は寿司やお弁当の仕切りや彩りとして使われている緑のもの(^^)v
語源は「葉蘭(はらん)ユリ科の植物で、江戸時代後期頃から美しく細工をするようになったそうです。
葉蘭切り、笹切りは寿司職人にとって重要な仕事で、
4年に1度開催される「全国すし技術コンクール」大会の一部門に笹切り競技があり、
弘さんは第2回のコンクールで準優勝されました。
花寿司に行ったら是非、その笹切りの技も寿司と共に堪能したいですね。
江戸時代から続く貴重な技術を見て感じて欲しいです✨
稲生弘さんの略歴
埼玉県立上尾高等学校 野球部卒
1965年 第2回「全国すし技術コンクール」大会 笹切り部門 準優勝
その後、第3回 巻き寿司部門、第4.5.6回 握り寿司部門でいづれも準優勝
(※4年に1度の開催のため20年間出場された。)
1975年 桶川 花寿司オープン
2000年 桶川ヤングアローズ(軟式少年野球チーム)監督
野球の楽しさを知って欲しいと考え「自主性の大切さ。自ら進んでやること」を
教え、監督就任3年後、埼玉県大会で準優勝 部員を4年間で70人増やした,゚.:。
埼玉県鮨商生活衛生同業組合で副理事長兼技術委員長
++弘さんは全て準優勝でちょっと悔しいと仰っていましたが、その余白があるからこそ、
今もずっとチャレンジを続けていらっしゃるのだなあと思いました。