今回の桶川元気人は多くの遺跡発掘をされた今井正文さんにお話をお聞きしました~
今回の桶川元気人は桶川市役所にお勤めされ桶川の遺跡発掘調査に多くの足跡を残され、
歴史民俗資料館や税務課、加納公民館にも勤務された今井正文さんにお話をお聞きいたしました。
私が今井さんを知ったのは、2020年の「坂田図書館歴史講座 地域の歴史を紐解く。」に参加させていただき、
今井さんと当時の坂田図書館の館長さん、スタッフの方と総勢20名くらいの参加者で
坂田周辺を歩いて江戸の風情を残した建物のことや、
歴史のことなど、今まで全く知らなかったことをたくさん教えていただいたのがきっかけでした。
その時、私が最も驚いたのが、スマイルピアザ坂田を建設しようとする中、ちょうど多目的室のあたりで
およそ7,000年前~5,000年前の住居跡と古代と思われる炭焼きの跡が見つかっていたこと、
そして遺跡があった記録を残して建物が建てられて行くことが普通のことと教えて頂いたことでした。
それから明星院、坂田の富士塚などを訪ね今井さんのお話を聞いていると時間と空間が縄文時代から鎌倉時代、
江戸から現在まで一足飛びにワープして、そのお話の面白さに引き込まれていったのでした😊
そんな、今井さんとまたお目にかかれるチャンスが!!
なんと!坂田コミュニティセンターで一緒に働いている仲間が、今井さんとは毎週マージャンをしているとのこと。
本当に今井さんは色々なことをご存じでとっても面白い方と教えていただき、
お話を聞かせていただくチャンスを作ってくれたのでした(((o(*゚▽゚*)o)))
2020「坂田図書館歴史講座 地域の歴史を紐解く。」の記事はこちらからご覧ください。
今井さんは1956年生まれ。7カ月の早産で生まれ、新生児メレナに罹ったそうで
(新生児メレナとは新生児が血を吐いたり(吐血)、血の混じった便を出す(下血)病気の総称)
まだ物心つかない赤ちゃんのご病気はさぞご家族は心配だったことと思います。
「未熟児だったからちっちゃかったですね。どちらかといえば今もちっちゃいけどね。
小学校の時はほとんど勉強もできないし、宿題は家に帰ると忘れてやってかないし、
廊下にバケツを持って立たされてました。学校の成績はよくなかったですね。」
と飾らない今井さんの謙遜なのか?冗談なのか?面白く小学校の頃のお話をお聞かせいただきました。
そして、「いつから歴史や遺跡が詳しくなったのでしょうか?」とお聞きすると
「父親がね、うちは農家だから、畑から土器や石器が出てきて、それを集めてずっと見ていて、
その光景をいつも見ていたこともあって自然と影響を受けていたのかな」とのことでした。
大学進学を考えた際、法学部や経済学部に行くのは嫌だったので社会学で2年間、公民館のことを勉強したそうですが、
実は通っていた大学の文学部長がお父様の友達だったことが発覚!!
全然知らないまま、お父様が今井さんの入学式にに「行ってみたい!」と来てみたら、
「あれ、あいつ何で大学の部長をやっているんだ?」と部長を見て大変驚いたそうです(^▽^)/
それから大学3年生になるタイミング(3年生になる時のみ転科が出来たそう)で
「それじゃあと、親の七光りを使ってしまおう」と親子でお願いして、社会学科から史学科に転科したそうです。
普通は一応文面上出来ると書いてあるけれど、なかなか通常ではできない話でしたが、
部長の力を借りて、無事、転科できたそうです✌
「それからずっと現在までコネ人生だね。(笑)」と今井さん(*^^)v
寮の同室だった友達は仏教考古学の勉強を続け、現在は新潟県庁に在籍し、
昨年7月の世界遺産に登録された「佐渡島の金山」についての事務を担当している。
学生時代から繋がる友人関係や考古学をやってきた先輩たちもたくさんいて、
長野県に飯山市がありますが、そこで出会った高校の同窓のグループの人たちは皆で学びそれぞれが力を発揮し、
都内の大学に入って、夏休みになると皆で田舎に行って、そこで発掘調査をしました。
そのグループに引き込まれて、「青森県に行けるぞ」、「茨城に行ったり」、「石川県の発掘に行くぞ」と、
ほとんど大学の授業には行かないで発掘現場ばかり行ってたそうです😊
坂田コミュニティセンターが建てられる前の発掘現場
発掘現場にいると経験を積んだ先輩たちから様々な話を聞いたり、
色々な大学の個性豊かな先生方が来ていてとても楽しかったそうです。
「そして遠くに行けることも嬉しかった。家が貧しいから、アルバイトをしないといけなかったからね。
僕らの時代は東京では発掘調査に行くと、日当がもらえたんだよね。
しかし、食わせて飲まして寝かせるだけで、交通費も出なかった発掘調査もありました。」
それこそが、きっとお金では買えない貴重な経験だったことでしょう✨
そんな中、社会学科の友達に「飲むのと泊まるのはただだよ」って長野に誘ったら「長野に行きたい!」ということになり、
彼の車に乗って、二人で長野へ行きました。
その発掘現場で彼が墓の跡を掘り進めたところ、4つの完形の土器(お椀くらいの大きさ)が
出土したのを大変喜んでいました。
そしてそれがきっかけで、彼は桶川市の発掘に係わることになり、それから2年後、その担当者から
「もう1人、職員を取らないといけないね」という話になって、そこで、今井さんが桶川に向かうことになったそうです。
今井さんは「ほとんど裏口です。」と謙遜されますが、それは発掘の実績と人柄を認められ、
友人の後押しがあったからのことでしょう😊
その後、桶川市の教育委員会の職員として、10年間ぐらい(1980年から1990年ぐらいまで)発掘調査の数部署で働いたそうです。
当初は正社員ではなく、非正規職員だったので、「桶川には4、5年かな。
それくらいで首切られるかな」って思ったそうですが
それからずっと桶川にいることになったそうです。
坂田コミュニティセンターが建てられる前の発掘現場
1980年代は高速道路や大きな団地がたくさん建設された時期でとても忙しい時代でした。
埼玉県からも市町村で文化財を発掘する職員すなわち、
埋蔵文化財の知識や技術を持っている職員を採用するような指導もあり採用されたようです。
「県や市が学校をつくる・道路をつくる」「業者が建売住宅をつくる」ということで、
どうしても事前に発掘調査が必要となったそうです。
大変だったのは東部の工業団地の後谷遺跡と宮ノ脇遺跡の発掘調査でした。
その前には日出谷団地や桶川西小学校の発掘調査も行っています。
「桶川には遺跡が多いのでしょうか?」とお聞きすると桶川には160カ所ぐらいの
遺跡があり、発掘調査の需要があったとのこと。
桶川市役所を退職するまでの最後の1年は天王山遺跡と城山公園にある
今のバーベキュー場のあたりの発掘をしたそうです。
坂田コミュニティセンターが建てられる前の発掘現場
そして、2020年8月に開館した桶川飛行学校平和祈念館ですが、「飛行学校なんて残す必要ない!」と
考えていた方が多数いたそうで、当初は壊される計画だったところ、今井さんは、その価値の大切さを人々に伝え、
「飛行学校を残そうと運動した発起人の一人」だったそうです。
今井さんとしては絶対に残すべきと思い、仲間と共に、個人的に飛行学校を残す運動を行ったそうです。
署名運動して2万5000人ぐらいの署名が集まり、当時ニュースでも取り上げられ
テレビ出演し飛行学校の重要さを伝えたそうです。
戦前までに存在した国内の軍事飛行場は陸軍が140カ所以上、海軍が40カ所以上あったそうです。
日本で最初に飛行場が作られたのは埼玉県で、戦前、埼玉県には所沢、熊谷(御威稜、三ヶ尻)
桶川、東松山(唐子)児玉、坂戸、高萩、狭山、豊岡(修武台、航空士官学校)小原(熊谷)越谷に陸軍飛行場が存在しました。
今井さんは署名活動に入る前に百カ所ぐらい青森から九州まで飛行場跡をリサーチしました。
まず図書館に行ってはデータが残っていないか?どこにその県の飛行場があったかを調べたそうです。
それから現地に行って写真撮影し、記録を集めると飛行場だった場所は工場になっていたり、
学校や畑になったところ、航空自衛隊として現代でも使われているところも有ったそうです。
全国の陸軍の飛行場をリサーチして分かったことは、当時の兵舎(兵隊さんを収容した施設)が
2棟と守衛室、車庫、トイレ棟などの付属施設が残っていたのは全国で桶川だけだったとのこと✨
そこで桶川飛行学校を残すことの大切さを仲間と共に大きな声で訴えそうです。
その活動は2000年ぐらいから始まり20年の月日を費やして、桶川飛行学校平和祈念館が設立されました。
価値の分からない人たちにとっては必要ないと判断されることもあった中で、
桶川飛行学校平和祈念館が残されたことは本当に価値あることと思います。
今井さんを始め、飛行学校を残すよう運動を起こした方々に深く感謝申し上げます。
その後、今井さんのお話は、中山道の宿場町をすべて写真に収めたことや、砂金を全国に探す旅に出たこと。
植物や昆虫もとてもお詳しいので、オキクムシ、ジャコウアゲハのお話も次回、是非ご紹介したいと思います✨
今井さんと一緒に桶川散歩に出かけてみませんか?
今まで知っていた桶川に新たな魅力を教えていただき、益々桶川が楽しく感じることでしょう。
人に歴史あり、町に歴史あり。私たちにとってすでに遠い昔の出来事でも、
今井さんに教えていただくとその時代時代につくられた文化や人の心が蘇るようです。
我が町、桶川がきっともっと好きになること、間違いなしですよ(^▽^)/
今井さんと一緒に桶川飛行学校平和祈念館を訪ねるツアーを11/下旬に企画中!!
詳細、確定次第改めてご報告いたしますので、よろしくお願い申し上げます😊