第2回桶川学、 加納地域と備前堤をテーマに開催されました~

桶川コミュニティカレッジ 第1回の「坂田地域の歴史を学ぶ」に続き

第2回「桶川学」を桶川市の文化財課兼歴史民俗資料館にお勤めされ

日頃から桶川の歴史に深く触れる日々を送る林かおるさんを講師にお迎えし

加納地域と備前堤をテーマに開催されました~

前回は江戸時代の桶川を教えていただきましたが、今回のテーマは備前堤

備前堤とは江戸時代、代官頭として幕府の領地の開発にあたった伊奈備前守忠次に由来しております。

忠次は、江戸時代以前の天保18年(1590)の小田原北条氏攻めでは道路の普請や富士川の船橋の整備

軍勢の兵粮の輸送などを一手に担い地方功者(じかたこうしゃとは土地、水、川などが動く工事を行う者)

としての地位を固めていきました。

そして、徳川家康が関東に入邦後、徳川家の関東支配の基礎作りに多大な力を発揮しました。

忠次亡き後は息子に引き継がれ、河川の流れを長年に渡り変えていきました。

備前堤は現在の鴻巣市や北本市方面から流れる綾瀬川、赤堀川を堤を築いて締め切り、

その流れを元荒川に結び付けました。

この堤の完成によって下流の伊奈、蓮田方面の村は洪水の害をまぬがれるようになりましたが

現在の桶川市加納地区を含む上流の村は大雨の降るたびに田が冠水し、その被害はとても大きなものだったそうです。

出水のたびに、上流と下流の村々の間で備前堤をめぐる争いがしばしばあったと伝えられ、

ついに上流の方で被害にあっている人たちは鎌や鍬を持って備前堤に行って堤を切り崩す事件まで起こったそうです!

現在も残る「御定杭」はこの争いを調停するために、土俵を積む高さを制限する目安とされたものだそうです。

1773年(安永2年)に、備前提の高さは田面より7尺5寸と定められ、定杭が打たれました。

 

その後、明治43年(1910)の関東大水害では備前堤の上、1.8メートルを越えてずたずたに決壊してしまい、

必死の水防活動が行われたそうですが、東京と埼玉で150万人が被害にあい、死者760人、

78人が行方不明と記録が残っているとのこと。

現在、備前堤の一部は道路となっており、昭和22年(1947)カスリーン台風がやってきて

荒川の久下決壊による洪水も起こりましたが、地元の加納村などによる必死の水防活動

(何百人かの人々が昼夜交代で見回り、堤上に土俵を積み上げ、綾瀬川への流入を防いだ)により被害を大きく抑えました。

おわりに備前堤は加納地域の大切な水防施設であり、備前堤をめぐり多くの人々苦労と努力が古文書から読み取れるそうです。

今も残る備前堤と御定杭、遥昔の江戸時代の風情を感じる風景に足を運んでみたいなあと思いました。

今回も歴史の重みを感じるお話をしていただき、知らなかった桶川に出会いました(((o(*゚▽゚*)o)))

林先生、ありがとうございました(__)次回も楽しみにしております✨